Scene 223 [Shooting Star]
一駅手前で読み終えた。
名残惜しくて巻末の年譜をぱらぱら捲る。
「宮城黎子の昭和テニス史—グッドデイズ、グッドイヤーズ、グッドライフ」
全日本選手権シングルス8連覇を含む、全日本単複混合計30個のタイトルホルダー。
1964年「レイテニスショップ」開店。
1967年「伊勢丹テニススクール」開校。
1969年「モダンテニス」創刊。
そしてこの三つの“日本初”。
改めて偉大なパイオニアだと思い知らされる。
でも伊勢丹テニススクールで習っていた頃は、(凄い人なんだろうな)とは感じていたものの、単純に“怖い人”だった。
夏の強化練習のレッスン中に女の子と話してたら、えらく叱られたっけ。
高校卒業を区切りに“選手”をやめて、新宿ACBで演り始めた頃、正月恒例の初打ちに顔を出した。
一緒に行ったダチも同じくバンドに専念してて、俺等のカッコはまあテニスプレーヤーのそれではなく、タイトなパンツにブーツの典型的なバンドマンスタイル。
そんな俺達を見て宮城先生は一言。
「早く着替えてらっしゃい」「いや、テニスの用意して来てないです……」「あらそう、じゃあ仕方ないわね」
“怖い”と感じていたのは、余りに強烈なテニスへの情熱に圧倒されていたからなんだな。
本の内容は宮城先生が生まれた1922年(大正11年)からの半生記。
1922年はウィンブルドンが現在のウィンブルドンコモンに移って来た年であり、日本庭球協会が設立された年でもあり、更に第一回の全日本選手権が開催された年。
そして宮城先生が田園調布に引っ越した8年後1934年(昭和9年)に田園テニス倶楽部開業。
タイトルの“昭和テニス史”は正にその通りだ。
“ウィンブルドン”が1877年から1921年までは、“ウィンブルドン”ではなくウォープルロードで開催されていたこと、“テニスコートの恋”の以前に、現皇后陛下である美智子様が関東大学新人戦で優勝していること等々のエピソードに驚かされる。
全豪の本選に出ていたのに自分では予選だと思い込んでいて、後年になって人に言われて本選に出場していたと知ったというくだりもある。
ハリー・ホップマン夫妻との交友を綴った箇所では、ハリー・ホップマン氏を招いてのレッスンを思い出した。
あの速射砲の様な球出し、全日本ジュニアのチャンピオンの先輩が打ち込んだ球を獲れるか獲れないかギリギリの所に落す配球、ホップマン氏が昼食後の練習に若干遅れて来た時の「名前のわりには急いでないな!」という俺達のコーチのギャグ。
そのコーチがいつだったか、「宮城さんに代って駐車場に車入れたんだけど、“バックは出来ない”らしいんだよね。いつもどうしてるんだろう?」何て言ってたのも思い出す。
とにかくいい本だ。
俺が関係者ということを差し引いても充分おつりが来る。
帰宅して、読み終えた本をキッチンのテーブルの上に置いてiBookを開いた。
メールの受信フォルダに伊勢丹テニススクールの仲間からのメール。
(何だろう?又呑みの誘いか?)と開いたら……。
急に先週の太子堂での出来事、メールをくれた奴の友人と先日たまたま話をしたこと、そして今さっき本を読み終えたことが、このことの暗示だったのかと思えて来る。
そして宮城先生からのメッセージだったのかと、今の自分を振り返った。
全然ダメだな、俺。
頭の中では何故か、(ディランのShooting Starを聴かなきゃ)と俺が俺に言ってる。
お涙頂戴はまっぴら御免でしょうから、最後に「宮城黎子の昭和テニス史」のプロローグのタイトルを記してみます。
「テニスほど楽しいものはない」宮城黎子
合掌。
2007.6.7
Chitosedai1-28-1
名残惜しくて巻末の年譜をぱらぱら捲る。
「宮城黎子の昭和テニス史—グッドデイズ、グッドイヤーズ、グッドライフ」
全日本選手権シングルス8連覇を含む、全日本単複混合計30個のタイトルホルダー。
1964年「レイテニスショップ」開店。
1967年「伊勢丹テニススクール」開校。
1969年「モダンテニス」創刊。
そしてこの三つの“日本初”。
改めて偉大なパイオニアだと思い知らされる。
でも伊勢丹テニススクールで習っていた頃は、(凄い人なんだろうな)とは感じていたものの、単純に“怖い人”だった。
夏の強化練習のレッスン中に女の子と話してたら、えらく叱られたっけ。
高校卒業を区切りに“選手”をやめて、新宿ACBで演り始めた頃、正月恒例の初打ちに顔を出した。
一緒に行ったダチも同じくバンドに専念してて、俺等のカッコはまあテニスプレーヤーのそれではなく、タイトなパンツにブーツの典型的なバンドマンスタイル。
そんな俺達を見て宮城先生は一言。
「早く着替えてらっしゃい」「いや、テニスの用意して来てないです……」「あらそう、じゃあ仕方ないわね」
“怖い”と感じていたのは、余りに強烈なテニスへの情熱に圧倒されていたからなんだな。
本の内容は宮城先生が生まれた1922年(大正11年)からの半生記。
1922年はウィンブルドンが現在のウィンブルドンコモンに移って来た年であり、日本庭球協会が設立された年でもあり、更に第一回の全日本選手権が開催された年。
そして宮城先生が田園調布に引っ越した8年後1934年(昭和9年)に田園テニス倶楽部開業。
タイトルの“昭和テニス史”は正にその通りだ。
“ウィンブルドン”が1877年から1921年までは、“ウィンブルドン”ではなくウォープルロードで開催されていたこと、“テニスコートの恋”の以前に、現皇后陛下である美智子様が関東大学新人戦で優勝していること等々のエピソードに驚かされる。
全豪の本選に出ていたのに自分では予選だと思い込んでいて、後年になって人に言われて本選に出場していたと知ったというくだりもある。
ハリー・ホップマン夫妻との交友を綴った箇所では、ハリー・ホップマン氏を招いてのレッスンを思い出した。
あの速射砲の様な球出し、全日本ジュニアのチャンピオンの先輩が打ち込んだ球を獲れるか獲れないかギリギリの所に落す配球、ホップマン氏が昼食後の練習に若干遅れて来た時の「名前のわりには急いでないな!」という俺達のコーチのギャグ。
そのコーチがいつだったか、「宮城さんに代って駐車場に車入れたんだけど、“バックは出来ない”らしいんだよね。いつもどうしてるんだろう?」何て言ってたのも思い出す。
とにかくいい本だ。
俺が関係者ということを差し引いても充分おつりが来る。
帰宅して、読み終えた本をキッチンのテーブルの上に置いてiBookを開いた。
メールの受信フォルダに伊勢丹テニススクールの仲間からのメール。
(何だろう?又呑みの誘いか?)と開いたら……。
急に先週の太子堂での出来事、メールをくれた奴の友人と先日たまたま話をしたこと、そして今さっき本を読み終えたことが、このことの暗示だったのかと思えて来る。
そして宮城先生からのメッセージだったのかと、今の自分を振り返った。
全然ダメだな、俺。
頭の中では何故か、(ディランのShooting Starを聴かなきゃ)と俺が俺に言ってる。
お涙頂戴はまっぴら御免でしょうから、最後に「宮城黎子の昭和テニス史」のプロローグのタイトルを記してみます。
「テニスほど楽しいものはない」宮城黎子
合掌。
2007.6.7
Chitosedai1-28-1
カテゴリー:DYLAN
2008/06/12 21:46















